Pick
Up
New
考え、議論するフォーラム / インタビュー

ロボットやAIに頼り過ぎるのは是か非か

Vtuberとロボットの共通点!?

清田乙武さん、前回、Pepperのコミュ力が上がった話をしましたが、「ロボットだと人間よりも接しやすい」という話についてもう少し話をしませんか?

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
↓前回の記事はコチラ
ロボットと人間は心を通わせられるか?友達になれるのか?
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

乙武いいですね。Vtuber(キャラクターやアバターを用いたYouTuber)という人々が増えています。動画配信サービスを運営するSHOWROOMの前田裕二さんが教えてくれたのですが、障がいの有無にかかわらず、容姿に自信のない人は、人前でメッセージを発信することに臆してしまう。ところが、Vtuberとなって自分の外見情報をゼロにすると、美女やイケメンでビジュアルに自信がある人と条件が一緒になる。「自分が発信なんて……」と思って歌を披露できなかった人が堂々と歌い上げ、人気者になっていたりするらしいんです。

清田昔のラジオスターみたいなもんですね。

乙武ロボットも、人格を乗り移らせたりして、そういう活躍ができるんでしょうね。吉藤オリィさんが開発した「分身ロボット」(遠隔地からロボットの「Orihime」を介して人間とコミュニケーションができる)なんて、人間が体を借りているようなものです。本人にまつわる視覚情報はリセットできるので、Vtuberと同じ使い方はできますよね。

清田ロボットを通じて話したら見た目が変わるから、ノリがよくなったりします。例えば…自分の好みのタイプの異性がいたとしましょう。話しかける声がいい感じになり、性格も変わって、いろいろ喋れるようになる。社会との接点において外見情報を遮断したら、無意識に抑えているものを解放できたりします。

乙武ここ近年のツイッターの完全無法地帯をどうやったら改善できるのか?ということを友人と喋っていた時、ある人は「モラルを問うべきだ」とか「顔や名前が出てないからこそ、責任をもって発言すべきだ」などと言いました。別の人は「アイコンをかわいい動物にしかできなくする」と言いました。実はこうすることで、発言がマイルドになるという効果があるらしいんです。確かにほっこりして、改善するかもしれませんよね。モラルの重視などの道徳を説くよりも効果はあるのかも。

清田ペルソナというか、なんの皮をかぶるか、ですね。

乙武友人から聞いた話で、訓示を垂れるのが好きな中小企業の社長がいるのですが、従業員から全く話を聞いてもらえない。ある社員からアドバイスを受け、美少女キャラに訓示を喋らせるようにしたらみんな聞くようになったと(笑)。

清田ハハハハハ、面白い!私が大学で一番面白かった授業が社会心理学です。いろいろ小難しい話があったのですが、結論は一つ。「外見的魅力が高い方が話を聞いてもらえる」というもの。何このひどい学問、と一瞬思いましたが、確かにその通りなのでしょう。

乙武視覚情報につい影響されてしまうものは大きいですね。

清田逆の話で言えば、私の大学時代、目が見えない学生が大学の近くの駅で杖をつき歩いていたんです。、「どこまで行くんですか?」と、一緒に教室まで行きました。その後7-8年ぐらいして、同じように杖をついている人がいて、「一緒に行きましょうか?」と歩きながら話をしていたら「昔会ったことありませんか?」と聞かれました。聞けば確かに同じ大学、どうして分かったのかと聞いたら、話し方の感じと腕を触れた感覚が同じだった、と。

乙武目の見える清田さんが分からず、目の見えない彼には分かったということですね。

清田見えないものが分かる、ってことを知らされたわけです。彼は目が見えないため、聴覚や触覚が研ぎ澄まされているんだと感じました。

乙武視覚情報が、彼には関係ないわけですもんね。外見を気にすることも本質ではない、ということかもしれません。もうこうなったら、メガネをかけると目の前の人全員が好みのタイプに見えたり、または全員が動物に見えたり、なんていう商品が開発されるようになっていくのかもしれません(笑)。

清田ユートピアなのかディストピアなのかよく分かりませんが、職場の中国人から聞いた話です。中国のネットには「人気の顔」的なものがあり、YouTuberはみんなその顔になる整形手術をするそうです。あり得ないですよ!と彼は言ったのですが、私はコレは考えようによってはアリかもな、と。「失恋しても、同じ顔の人にまた会えるじゃん?前よりもっと性格がいいかもしれない(笑)」と言いました。「結局どっちの子が優しいか」に帰結するというか。笑われましたけど(笑)。

AIやロボットの時代に必要なのは哲学である

乙武今の話で思い出したのが、田原総一朗さんとご飯を食べた時のことです。現在85歳ですが、82歳ぐらいの頃だったかな。僕は、「80歳を超えてこの分野に取り組んでいきたいというものはありますか?」と聞いたら即答で「哲学」とおっしゃいました。

これには二つ意外な点があり、一つは即答するだけの答えが用意されていたこと。もう一つは、古典的な「哲学」だったこと。続けて、こう言いました。「これからの時代はAIやロボットだよ。人間に代わって何でもできる時代だからこそ、どこまでは任せて、どこからは任せてはいけないのか、その線引きを作るべき。それには哲学が必要なんだよ」と。80歳を超えた人が未来の課題を読んで、今こそ「哲学」が必要だというのは「ちょっと参ったな……」と思いました。

清田海外にはロボット裁判官のプロジェクトが動いています。膨大なデータを読み解くのはAIには打って付けですが、善悪をロボットが判断するというのは結構難しい。トロッコが暴走し、こちら側に行くと老夫婦がいる。あちら側には幼稚園児がいる。トロッコをどちらに進ませるべきかみたいなもので、これは老人をひけ、という合意がされればロボットが下す結論はそうなる、ということです。でも、正しさという意味では答えは出るものじゃない。

乙武今の話に関連すれば、警察権力を人間が担っているから、同等の罪を犯しても黒人が白人よりも罪が重くなる、という事態が起こる可能性があります。でもロボットが警察になれば、黒人は無条件に射殺される、といった事案はなくなっていく。これはロボットが判断することのプラスです。もっと言うと、政治家の友人は「政治家はAIに任せた方が社会は良くなるかもしれない。結局、政治の世界は好き嫌いだから、この政策は必要だけど、あいつが進めているから反対してやれ」となると語っていました。だからこそ「解決しなくてはいけない社会課題と使える予算をインプットし、あとはAIに判断してもらうのがいいのでは?」と政治の世界の“中の人”が言っていて考えさせられました。

清田なるほど……。人間は、正しいとは言い切れない判断を今日まで続けて、文化を紡いできたんだな、ということを改めて思い知らされました。正解か間違いかよりも好き嫌いが重視されてきた。それはそれで、振り返って悩まないで済む方法なのかもしれません。
「好き・嫌い」の判断であれば「好きでやったことだから後悔はない」と思えます。「正解・間違い」を判断材料にすると、「あの時のあれは正しかったのか…」と後で悩む。全てのことをAIによって「正しい」か「最も妥当」かという軸で再編集されてしまうと、「本当にそれでいいのか」という話には尽きない。まさに今、AIやロボットの「使い方」を考えるのが重要なタイミングなんです。

乙武おっしゃる通り。僕はスポーツが好きですが、最近は様々な競技でビデオ判定が導入されており、誤審は減っていくでしょう。しかし、試合として興冷めということは往々にしてあるわけです。これまでサッカーではハンドとかユニフォームを引っ張ったとかを人間が判定していました。これが常にビデオ判定となると、厳密に判定が下されることになります。ただね、スポーツは勝負であると同時に、興行でもあるんですよ。「ここでPK取ったら、もう試合終わっちゃう」という場面では審判が“空気を読んだ”判定をしていたかもしれない。それが、ビデオやコンピュータだと杓子定規になります。その時、僕らはどちらを選ぶのか。「正確な」審判なのか、それとも「融通が利く」審判なのか。

清田エンタメに圧倒的な正しさは必要ないのかもしれませんね。そこを残しているのが、テニスで審判に異議申し立てをできる「チャレンジ」を回数制にしている点。その物言いがビデオ判定の結果正しかったらチャレンジ権は減らないけど、正しくなかったら1回権利を失う。こんな感じで、AIやロボットの正確性というものは、人間の不確実性を補う形で使えればいいな、と思います。「正しいのはこれです。これ以外はありません」という社会になったら適合できる気がしません(笑)。

乙武ところで、田原さんがおっしゃっていた、AIやロボットにどこまで任せるのかという線引きについて「生命に関わるところ以外は放っておいてくれ」という意見があります。前回の対談で、片足義足の選手よりも、両足義足の選手の方が速いからこそ、片足がある人は残った足を切り落としたくなるという話をしました。今は「アスリートの世界では」となりますが、やがて一般人にも適合される話になってくると思うんです。

80歳になって足腰が弱ってきた人がいたとしましょう。寝たきりになった時、足を切り落として義足をつければ、歩けるようになりますよ、という時代がくるかもしれない。我々は、親からもらった肉体にピアスを開けるのでさえ抵抗を感じる人もいます。ましてや両足を切り落とすということが倫理的にOKなのか?更に言えば、自ら好んで両足を切り落とした人に障がい者年金は下りるのか?そういう問題も今から議論しておいた方がいいと思うんですよね。

※この記事は、対談内容をもとに加筆・編集したものです。

乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)氏

1976年生まれ、東京都出身。早稲田大学在学中に出版した『五体不満足』が600万部を超すベストセラーに。卒業後はスポーツライターとして活躍。その後、小学校教諭、東京都教育委員など歴任。現在は『AbemaPrime』で金曜MCを務める。11月1日に、義足プロジェクトの全容を追った『四肢奮迅』(講談社)が発売。

清田敢(きよた・かん)

あさってロボット会議 編集長。
1979年、マンハッタン生まれ。レコード会社でキャリアをスタートさせた後、面白いことができる環境を求め、コンサル会社、ソフトバンクへと転職し『Pepper』プロジェクトに参画。

オススメ記事